「子供を勉強好きにしてほしい」と口にする親の浅はかさ―学校の勉強が「好き」な子など、ほぼいない―

はじめに:一見ポジティブな「願い」の正体

「この子、勉強が嫌いで……。なんとか、勉強好きにしてくれませんか?」

教育現場で指導をしていると、保護者からこういった言葉を何度も耳にします。一見すると前向きな願いに聞こえるこの言葉。しかし、その実態を深掘りすると、多くの場合、その裏には無知と無責任、そして無自覚な押しつけがあります。

そもそも、ここで言う「勉強」とは何を指しているのでしょうか? ほとんどの親が無自覚に口にする「勉強」は、「学校の勉強」のことです。国語、数学、英語、理科、社会……教科書に沿って授業が進み、定期テストで成果が可視化される、あの類の勉強。

そして親が望んでいる「勉強好き」とは、「その学校の勉強を自ら進んで取り組む子になってほしい」という願望に他なりません。さらに突き詰めれば、それは「成績を上げてほしい」「受験で勝ってほしい」という下心が透けて見えます。

これは「好きになってほしい」の皮をかぶった、「やらせたい」「できるようにさせたい」という、他律的な支配の欲求なのです。


学校の勉強が「好き」な子は、ほぼいない

まず最初に断言しておきます。
学校の勉強が本当の意味で“好き”な子など、1000人に1人もいません。

教科書に沿った画一的な学び、無機質な定期テスト、覚えるだけの知識。
そんなものを心から「楽しい!」と感じる子が、果たしてどれほどいるでしょうか。これは“能力”や“やる気”とは関係ありません。内容そのものが本質的に面白くないのです。

では、ときおり見かける「勉強が好きです」と言う子はどうでしょう?
そういった子は、すでに学校の勉強を“卒業”しているのです。学校で習う範囲は既に通過点。もっと深く探究したり、自分なりの方法で学び直したりしている。その子が好きなのは、“自分でコントロールできる学び”であって、“強制される学校の勉強”ではない。

つまり、親が期待している「学校の勉強が好きになる子」と、実際に存在する「勉強好きの子」には、決定的なギャップがあるのです。


勉強が嫌いなのは、むしろ正常である

そもそも、好きでもないことを毎日何時間もやらされ、テストで順位をつけられ、間違えたら怒られる。そんな環境に「好き」という感情が芽生えるはずがありません。
「勉強嫌い」は、感受性が正常に働いている証拠でもあります。

実際、多くの大人も「仕事は楽しいですか?」と聞かれたら、「まぁ、仕方なくやってます」と答えるでしょう。それと同じことを子どもに対して「好きになれ」と言うのは、あまりに理不尽です。

なぜ子どもだけが、無理やり“好き”を装わなければならないのか。
なぜ保護者は、自分の願望を「子どもの幸せ」のように語ってしまうのか。
「勉強好きにしてほしい」と願う親の言葉は、往々にして子どもに苦痛を押し付けているのです。


親の「教育幻想」が子どもを追い詰める

「勉強が好きなら、きっと成績も伸びるはず」
「勉強が好きな子は、自立して学んでくれる」
「勉強が好きになれば、将来も安泰」

こうした願望は、教育幻想の一種です。
子どもが「好きでやっている」ように見えれば、親は責任から逃れられる。無理にやらせていないという体裁も保てる。だからこそ、「自発的にやってほしい」「好きになってほしい」と都合のいい言葉が使われるのです。

しかし、子どもは敏感です。
「勉強が好きって言えば親が喜ぶ」「やる気を見せなきゃいけない」——そう感じた瞬間から、学びは苦役に変わります。

勉強とは本来、必要だからやるものです。
そして必要性は、時に本人が自覚するより先に、環境として与えられるべきものです。
「嫌いでもやる」ことが前提なのに、そこに「好きであってほしい」という幻想を重ねると、子どもに矛盾したメッセージが届くのです。


本当に必要なのは、「勉強好き」ではない

では、どうすればいいのでしょうか。

答えは明快です。「好きにならなくてもいい。意味を見いだせるように支えること」です。

勉強は、未来の自分を支える道具です。
その価値を一緒に言葉にすること。苦手に対して怒るのではなく、「どうやったらできるようになるか」を一緒に考えること。
つまり、「感情を変えること」ではなく、「行動の意味づけを変えること」に親の役割があるのです。

子どもが勉強を好きかどうかではなく、やるべきことをやる力を身につけるか。そこにこそ目を向けるべきです。


終わりに:愚かさは、無知と無反省のかたち

「勉強を好きにしてほしい」という親の言葉は、多くの場合、無知から出発しています。
勉強の本質を理解せず、子どもが何に苦しんでいるかも知らない。にもかかわらず、“善意”という名のもとに期待だけを押し付ける。

その結果、子どもは“好き”という仮面をかぶりながら、自分を偽り、疲弊していくのです。
これは明らかに「教育」という名の暴力です。

浅はかな願いが、無言のプレッシャーとなって子どもを潰す前に——
私たち大人こそが、「勉強とは何か」「学ぶとはどういうことか」を問い直す必要があります。

保護者・教育者向け子供とのかかわり方