はじめに
近年、子どもが『ごんぎつね』を読んで「おばあさんの死体を煮ている」と解釈したという誤読のエピソードがSNSや教育現場でたびたび語られる。
このエピソードは、「子どもの読解力が低下している証拠」として扱われることが多い。
だが本当にそうだろうか?
「死体を煮ている」という推測は、読解力の欠如ではなく、むしろ子どもが自分の持ちうる世界観と経験から、精一杯物語の背景を組み立てようとした“読解の成果”ではないか。
大人たちは、このような子どもの想像を一笑に付すことで、自身が持っている時代遅れの文化的前提や常識を振りかざし、読解とはこうあるべきという押しつけを行っていないだろうか。
◆ もはや子どもにとって「葬式の料理」は実在しない
『ごんぎつね』には、母親を亡くした兵十の家で何かをぐつぐつ煮ている場面が登場する。
この描写を読んで、「おばあさんの死体を煮ているのではないか」と誤解する子どもがいるというのだ。
その誤読を笑う大人たちは、次のように思っているはずだ。
「家族が亡くなったら、家でお葬式をして、参列者に料理をふるまうのが当たり前だ」
「その料理の支度だということぐらい、読み取れるだろう」
しかし、今の子どもたちは、そもそも家で葬式をするという文化的経験を持ち合わせていない。
現在では、葬儀はすべて葬儀場やセレモニーホールで行われ、業者がすべて仕切るのが一般的だ。
料理は仕出し、式の進行もプロ任せ。
自宅で通夜ぶるまいの料理を親族が手作りし、鍋で煮込んだりするような経験は、都市部では皆無に近い。
つまり子どもたちは、「身内が死んだあとに自宅で鍋を煮る」という行為に、何の文脈も持っていないのだ。
そこで、どうするか?
自分の持つ知識やイメージ、現代的な社会感覚を総動員して、可能性のある状況を推理する。
そしてたどり着いた一つの仮説が、「おばあさんの死体を煮ている」なのである。
これは決しておかしなことではない。
むしろ、何も考えずに「きっと料理を作ってるんだろうな」と読み流す方が、よほど読解力がないのではないか。
推理・検討・解釈。
それらを経て導き出された読みを、笑って切り捨ててよいはずがない。
◆「死体を煮る」ことは歴史的に実在した
「でも、いくらなんでも死体を煮るなんて発想、異常だろう」
大人たちの中には、そう感じる人もいるかもしれない。だがそれは、自分が属する文化的文脈しか知らないという盲点だ。
実は、死体を煮るという行為は歴史的にも世界的にも決して珍しいことではない。
たとえば、中世ヨーロッパでは遠征中に死亡した王や貴族の遺体を「煮て肉を落とし、骨だけにして本国へ運ぶ」という処理が行われていた。これを「骨肉分離埋葬法(Mos Teutonicus)」という。
日本でも、民俗学的な文献には、山奥で死体を煮て骨を取り出す風習があったという記録も残っている。現代でも、犯罪や猟奇事件において「死体を煮る」「酸で溶かす」という行為が行われることがあり、それはニュースなどを通じて子どもたちの知識としても入り込んでいる可能性がある。
つまり、死体を煮るという発想そのものは、歴史的にも文化的にも存在するのだ。
それを知識やメディアから受け取った子どもが、物語のシーンと結びつけて推理したとしても、何らおかしなことではない。
それを「読解力の欠如」と切り捨てるのは、大人が自分の狭い常識で他人の思考を断罪する行為にほかならない。
◆ 子どもの想像力を「正誤」で判断する危険
そもそも、「読解」とは何だろうか。
物語の行間にある意図や背景を推し量り、自分の知識や経験と照らし合わせながら、筋道立てて意味を構築することではないか。
たしかに、国語教育の世界には「筆者の意図を正確に読み取る」ことを求める一面がある。
しかし、文学的な作品においては、解釈が一つに定まらないのが当然だ。
『ごんぎつね』は、ストーリー構成上も言葉づかいの上でも、意図的に余白や曖昧さが多く含まれている作品である。
ごんの動機も、兵十の心情も、作中では説明されないまま読者に委ねられている。
それこそが物語の深さであり、だからこそ、読む人の数だけ異なる解釈が生まれる。
その解釈の幅を、大人が「それは間違い」「読解力がない」と決めつけて潰してしまうのは、子どもから思考する自由を奪うことに等しい。
本来、「死体を煮ている」という子どもの読みは、驚きや不気味さをはらんでいるからこそ、そこから議論を広げるチャンスでもある。
たとえば「なぜそんなふうに思ったの?」「他に考えられることは?」と問いかければ、子どもは自分の中の常識や知識と向き合うことになる。
それをせずに、「それは間違い、読解力がない」と断定してしまうのは、教育としても最悪の対応ではないか。
◆ 「読解力の低下」を語る大人こそ読解力を失っていないか
「最近の子どもは読解力がない」
この言葉は、教育界でもメディアでも頻繁に使われる。
だが、果たしてその言葉を口にする大人たちは、自分自身の読解力を省みたことがあるだろうか。
『ごんぎつね』の時代背景、葬式の様子、地域共同体の生活感覚――そうしたものを常識として持っているのは、昭和世代以上の人間だけだ。
平成後半以降に生まれた子どもたちにとって、それはすでに「見たことのない過去の世界」である。
むしろ、「当たり前のように理解できるだろう」と思い込んでいる大人こそ、現代の社会的背景を読めていない。
時代が変わり、文化が変わる以上、読解の解釈も変わるのは当然だ。
「なぜそう読んだのか」を丁寧に考察せずに、単に「最近の子は読めない」と片付けるのは、大人の傲慢であり、想像力の欠如である。
そもそも、見識のある大人は、そんな批判を行うことはありえない。
◆ 想像力を広げることが「読解力」
子どもの解釈に一見「異常」と思えるものがあったとしても、それを「誤り」と決めつける前に、なぜその発想が生まれたのかを一緒に探る姿勢が重要だ。
子どもは、日常生活で体験できないことを、知識の断片や想像力で補う。
これは文学や創作における解釈の根幹でもある。
『ごんぎつね』の鍋の場面を「料理」と見るか、「死体処理」と見るかは、結局のところその子が今いる社会と経験の反映である。
そして、そうした「現代的な読み」を切り捨てるのではなく、むしろ「昔の生活はこうだった」と補足することが、本来の国語教育や対話のあり方ではないだろうか。
【結び】
「死体を煮ている」という子どもの読みは、決して狂気的でも異常でもない。
それは、現代社会において葬式の文化的イメージが失われ、家で煮物をふるまう文脈が消えたことによる、極めて論理的な想像の結果だ。
大人たちは、まずその事実を受け止めるべきである。
「読解力の低下」を嘆く前に、子どもの視点に寄り添い、なぜそう読んだのかを丁寧に紐解くことこそが、本当の読解教育ではないか。
そして何より、子どもの想像を狭めてしまう大人の方こそ、想像力という読解力を失っていないかを、もう一度問い直す必要がある。