保護者の多くは、勉強に対して「公平な土俵で、努力すれば必ず結果が出るもの」というイメージを持っています。
一方で、スポーツや音楽、芸術などに対してはどうでしょうか?
「誰でもオリンピックに行ける」
「練習すれば全員がプロになれる」
こう考える人はまずいません。むしろ、多くの保護者はこう言います。
- 「運動神経がないから仕方ない」
- 「向き不向きがある」
- 「才能には差があるもの」
ところが、これが勉強になると突然、「努力すれば東大だって夢じゃない」「やればできるはず」と思いがちです。
なぜ、勉強だけが“万能”のように扱われるのでしょうか?
その背景には、以下のような誤解や期待が混ざり合っています。
■「知識は平等に与えられるもの」という誤解
学校教育では、すべての子に教科書が配られ、同じ授業が行われます。そのため、「同じように学べば、同じようにできるようになる」という感覚が生まれやすくなります。
しかし、これは“入り口は平等”でも、“理解の深まり方”や“処理のスピード”には大きな個人差がある”という点を見落としています。
同じ教材を使っても、同じようには身につかない。
これは、視力に差があるように、脳の働き方にも違いがあるという“当たり前の事実”なのです。
■「テストは点数で測れる=評価が明確」という罠
スポーツや芸術は評価が主観的で分かりにくいですが、テストは点数という“数字”で成果が見えるため、結果がすべてのように感じてしまいます。
しかし、点数は一瞬の結果であり、長期的な成長を示すものではありません。
また、点数には「その教科に対する理解」だけでなく、「読解力」「集中力」「情報処理能力」「精神状態」なども大きく影響します。
数字の明快さが、かえって“過大な期待”や“短期的な失望”を生み出してしまうのです。
■ それでも「平均点」は取れるべき?
平均点という言葉も、私たちがよく聞く保護者の希望の一つです。
「せめて平均点はとってほしい」「最低限、平均にはいてほしい」——これもまた、親心として自然な感情です。
しかし、“平均”というのは実際には「中央値」ではなく「母集団全体の傾向」であり、誰にとっても目標にしやすいラインとは限りません。
たとえば、偏差値40前後の子どもに対して「平均点(偏差値50)を半年で目指そう」と言うのは、スポーツでいえば、「50m走で10秒かかっている子に、半年で7秒にしてくれ」と言うようなものです。
目標は大事ですが、現実と乖離しすぎた期待は、子どもの自信を奪い、学習そのものを嫌いにしてしまう危険もあります。
■ 「できる子」より「学び続ける子」に育てる
本当に大切なのは、成績を上げることよりも、学び続ける力を育てることではないでしょうか?
- すぐに結果は出なくても、コツコツやる姿勢がある
- 苦手を避けずに向き合おうとする気持ちがある
- 自分なりの工夫をしようとする意欲がある
こうした姿勢は、学校のテストでは評価されにくくても、社会に出たときにこそ価値を発揮します。
一方で、「短期間で結果を出せなければ意味がない」という考えは、子どもに“挑戦する心”すら奪ってしまいかねません。
■ 親の期待がプレッシャーではなく「支え」になるには
親が「期待すること」自体は悪いことではありません。
問題はその“向け方”です。
「頑張ればできる」は、一見ポジティブな言葉ですが、裏を返せば「できないのは頑張っていないから」と責めているように聞こえることもあります。
代わりに、こう言ってみてください。
- 「前より少し続けられるようになったね」
- 「わからないところを自分から聞けたの、えらいよ」
- 「すぐに点にならなくても、続けてること自体がすごい」
このような声かけは、子どもの“努力の過程”を肯定するメッセージになります。
■ まとめ:「学力」は才能、「学習習慣」は支援で育つ
勉強にも、当然「向き・不向き」があります。
誰でもできるものではありません。でも、「学び続ける習慣」や「取り組む姿勢」は、支援と環境次第でいくらでも育てていけるものです。
私たちが家庭や学習支援の場で大切にしたいのは、数字の変化より“心の動き”や“行動の変化”に目を向けることです。
“誰でもできるようになる”のではなく、
“誰にでも、それぞれの成長の仕方がある”
——そんな視点を、学びの原点に置き直してみませんか?