読解練習:この子の未来に、私は何を見ているのか【Lv.15|番外編:親の視点】
子どもが学校に行かなくなってから、1年がたった。
最初は、どうにか戻れる方法を探していた。
次に、無理に戻さないための「言い方」や「接し方」を学んだ。
そして今、私はただ、毎日を見ている。
あの子は、昼に起きて、好きな動画を見て、ゲームをして、気が向けば料理をする。
時にはふいに哲学的なことを話したり、音楽について熱く語ったりもする。
外には出ないけれど、まったく動いていないわけではない。
でも、私の中に、拭いきれない不安がある。
——この子の将来はどうなるのか?
——働けるのか?
——社会の中でやっていけるのか?
——このままでいいと言って、あとで後悔しないか?
一度、「進路の話」をしようとした。
でも、「今はまだ考えられない」と言われた。
その言葉に私は、なぜか少し安心した。
“考えられない”ということは、“考えようとしている”ということなのかもしれないと、勝手に思った。
将来という言葉は、遠くにあるようでいて、実はいつも目の前にある。
私が「将来のこと」と呼んでいるのは、
子どもではなく、私自身の不安の影かもしれない。
この子はこの子の時間を生きている。
私ができるのは、その時間に耳をすますことだけかもしれない。
でも、それは「何もしないこと」ではない。
ずっと問い続けることなのだと思う。
「この子の未来に、私は何を見ているのか」と。
◆ 問題
- 筆者は、「将来」についてどのような不安を抱いていますか?また、その不安の背景にはどんな思いがあると考えられますか?
- 「将来という言葉は、私自身の不安の影かもしれない」とは、どういう意味だとあなたは解釈しますか?
- 「耳をすますこと」とは、具体的にどのような関わり方だと思いますか?あなたなりに考えてみてください。
- あなたがこの親の立場だったとしたら、どんな「問い」を持ち続けることになりそうですか?
◆ ポイント
- 「将来不安」がどこから生まれ、誰のものなのかという根源的な問いに向き合う。
- 子どもの「今」をどう見るかという親の視点から、社会が求める「正常さ」や「自立」の基準を問い直す。
- 「問い続けること」そのものが、深い関わりや見守りの一形態であるという哲学的感覚を養う。